六月十五日から十九日にかけて開催された「フランス映画祭横浜2005」。今年度フランス代表団の団長は、「Z」「ミッシング」などで知られ、カンヌ、ベルリン、アカデミー賞を制し数々の映画賞を受賞している巨匠、コスタ=ガヴラス監督。過密スケジュールのなか、本誌のインタビューに快く応じていただいた。

 ——監督は映画学校に通っていらしたということですが
  まずソルボンヌ大学で文学部に行ったんです。同時に映画学校にも通うようになって、両方卒業したかったんですが、映画学校のほうが忙しくなってしまって結局文学部のほうは辞めました。

 ——映画学校時代、映画を学んだり観る以外に具体的にどんなことをされていましたか
  まず映画の歴史を学び、それから映画を観て、みんなで監督、ストーリー、映像の質、もちろん技術についても分析しました。そのほかに業界の人との会話もありました。一年目は編集の授業もあったので、ラッシュをもらって自分で編集しなさいといわれました。授業の中でなかったのは俳優をいかに監督していくかというもので、その授業がなかったので残念でした。たとえばズームやレンズの使い方といった実技は習いました。短いレンズや長いレンズを使ったときにどういう映像ができるかといった授業でした。当時はビデオがなくて16ミリと35ミリの授業でした。

 ——そのころから政治や社会に対して関心をもっていたのですか
  政治というのは一体何か、というのを考えるべきだと思うんです。どの政治家に投票するか、というのではなく私たちの日常生活で出会う人たちとの関係であるわけです。たとえばチャップリンの映画も社会性の強い映画だと思うんです。

 ——オープニングセレモニーの挨拶で、映画を見ることは人間の内面を成長させることだとおっしゃっていましたが、具体的にそういった経験やエピソードはありますか
  どんな映画でも、観ればその社会で暮らしている人たちのことがわかりますよね。皆さんがフランスの映画を観ればフランスの生活が少しわかりますよね。だからこそ映画というのは重要だと思うんです。スタローンやシュワルツェネッガーの映画はそれ自身面白いですけど現実に即したものではないですよね。私も観に行きますが、それは何かを学ぶためではなく二時間映画を楽しむためです。
  映画はできた当初から人と人とを結びつけ、近づけるものだと思います。お互いに近づくとお互いにわかりあうことができるようになります。反対に、わからない部分があると、敵になってしまうということがあります。

 ——監督の作品では「Z」や「ミッシング」のように実際の事件をもとにしたものがありますが、実際の事件をもとにしたフィクションとドキュメンタリー映画の違いはどこのあると考えていますか
  ドキュメンタリーが作れるのは実際のシーン、要素が目の前にあるときに作れるわけです。ドキュメントがあることが前提です。そういうドキュメントが実際にない場合、近しい現実に出来事が起こってそれを描く場合にシナリオを書いて俳優に演じてもらうわけです。そこで大切なのは、登場人物にしても状況にしても本来ある形で描かないと意味がありません。尊重することが必要なんですが、尊重とは事実の範囲を超えない、倫理観を守るということでもあります。映画を作るにあたってドラマチックにしたい、リズム感を出したいということで一部の内容が変えられてしまっているということがよくあります。それは良いことではありません。詐欺であって受け入れられないことです。

 ——新作「斧」の主人公はリストラにあった男性ですが、「マッドシティ」でもリストラされた人物が題材となっています。失業問題は監督も興味を持っておられるのですか
  私たちの社会の大悲劇ですから。この社会の生活は男性にしても女性にしても労働に対する金銭を土台に成り立っています。仕事がなくなってしまうと、その人間関係のサークルがすべて崩れてしまうのです。そこから人間の悲劇が始まるわけですが、もちろん家族が裕福で仕事を失ってもかまわないという人の話をしているわけではありません。私は学生時代家族からの仕送りがなかったのでアルバイトをしてお金を貯めていました。だから一週間仕事がないのがどういう意味なのか自分でもよくわかっています。「斧」の中では車や社会的ステータスを失うとかそういうことを言っているのではなく、家族の心理が微妙に変わってきてしまうことを描きました。まとまっていた家族が切り離されてしまう。だから仕事を失うということが社会的にみても非常に大きな悲劇となるわけです。

 ——監督の作品は緊迫した中にもユーモラスなシーンがいくつか見られるのですが、それはどういった意図でしょうか
  一般的に言って悲劇の中には一部喜劇の部分があると思うんです。その両方が合わさることによって希望がうまれます。まあ、人生の中にはユーモアが溢れてますので、ちゃんと見つけようとすれば見つかります。喜劇と悲劇を一緒にしたくないというのがフランスの伝統にはありますが。アメリカの映画にしてもヨーロッパの映画にしても日本の映画にしても素晴らしい映画にはいつもあるんです。「七人の侍」はよく例に聞くんですけど、喜劇あり、悲劇あり、暴力あり、すべてが入っていますよね。それからユーモアは私にとってすごく本質的なものです。

 ——監督は、映画作りは学校でできるか、というテーマを率直にどう考えていますか
  ホメロスにしてもセルバンテスにしてもバルザックにしても、大学に行って作家になることを学んだわけではないと思います。だから、学校に行かなくても映画は作れると思います。無声映画の作家たちは学校で学んで作ったわけではなく、自分たちで作り上げたわけです。30年代〜50年代は日本でもアメリカでもフランスでも映画学校はなかったんですから。ただ、現代は映画の作り方は非常に複雑になっています。学校に行ってよかったことは技術を学べたことです。そして映画界に入るきっかけになりましたから。自分のテーマをどのように選ぶかというのは非常にパーソナルなことですから学校では学べません。学校で注意しなければならないのは、「字の書き方」、つまり映画を作るという最初の部分を学ぶわけです。でも、本当は映画を作るには「字の書き方」を知る必要はないのです。技術的な必要性はありますが、「この字を書かなければ映画は作れない」ということはないので、自由に作っていいと思います。学校に行かずとも映画を作ることはできます。でも、まあ私にとって学校は重要でしたよ(笑)

 ——映画学校に行っていない人は映画の業界に入るきっかけをつかむにはどうすればよいでしょうか
  映画人の知り合いを持ってチームに入れてもらうか、フランスではよくある方法で、まず映画の批評家になって、それからシナリオライターになって映画の世界に入る人もいます。映画を作るためには技術的なコンサルティングをしてくれる人を隣につけなければなりませんね。

 ——学生時代のアルバイトなどして苦労した経験があるとおっしゃってましたが、ご自身の経験が作品に反映されるというのは多々あることなんでしょうか
  テーマの中には必ず直接的、間接的に自分の経験が生かされていると思いますが、具体的にこれだあれだ、とは言えませんね。映画というのは自分の感性とか自分が生きた経験などを通して作るものだと思います。

 ——日本の学生たちにメッセージをお願いします
  メッセージとか、人に対するアドバイスに私は懐疑的なんです。ひとりひとりに大切なのは自分の感性、主観で物事を行うことです。そして他の人の感性や主観も尊重するということが大切です。

 ——ありがとうございました

(聞き手/構成 外山昌樹・大賀洸)