【春の早慶戦特集】早慶戦110周年 伝統の一戦をいま振り返る

今年も早慶戦を前に春季リーグは盛り上がりを見せている。毎年早慶戦は春と秋共にリーグの最終戦となるのが恒例で、ライバル校同士熱い火花を散らしている。しかし早慶戦の起源を知っている人はそう多くはないのではないか。そこで早慶戦の由来と歩みについて探ってみた。

最初に早慶戦が行われたのは1903年。慶大野球部に早大野球部が挑戦状を出したことにさかのぼる。だが早慶の対決が世間の注目を浴びるようになったのは翌年に当時最強と呼ばれた旧制第一高等学校(現東京大学)に早慶共に勝利してからのことだ。さらにこの頃はまだ早慶戦という呼び方はなく、「早慶対戦」のように呼ばれていた。

その後、早慶対決は中止に追い込まれる。1906年秋、1勝1敗で迎えた第3戦を前に早慶両校の応援が加熱、一触即発の状態になった。これを受け第3戦を中止。以後19年間早慶戦は開催されなかった。

だが奇遇なことに早慶戦という語が生まれたのはこの中止期間中である。娯楽としての野球に興味を持つ人が増えたことから、双方ともOB主体のチーム同士で「准早慶戦」と呼ばれる試合が行われた。ここで早慶戦という語が生まれたといえる。以降、定着し他のスポーツにおいても使われるようになった。

互いをライバルとして意識し応援が激化する中、再び早慶戦中止の危機に瀕することになる。水原リンゴ事件と呼ばれる事件が1933年秋の第3戦で起こった。2回と8回にそれぞれ審判の判定が覆ったことから両校の応援団は加熱状態にあった。そして9回表、サードを守っていた慶大の水原茂に三塁側早大応援席からリンゴの芯が投げ込まれた。だが水原はそれを三塁側早大ベンチに投げ返したことで早大側が激高。更に9回裏に慶大が逆転サヨナラ勝ちをしたためついに早大応援団が慶大ベンチ・応援席に乱入。慶大応援団の指揮棒が奪い取られ、警官隊が駆けつける騒ぎとなった(後に指揮棒は満州で発見される)。これがきっかけで早慶戦において早大は一塁側、慶大は三塁側ベンチと固定されるようになる。

騒動の後、早慶戦は再開するが第二次世界大戦の勃発により中止を余儀なくされた。六大学野球リーグは1943年、戦況悪化に伴い消滅することが決定。加えて米国由来の野球は規制の対象となった。しかし「戦場に行く前に早稲田と1戦交えたい」という学生の願いから戸塚球場で「最後の早慶戦」が行われた。試合は早大が勝利したが慶大は「都の西北」、早大は「若き血」を熱唱、互いに激励しあった。そして早慶戦は終戦後の1945年に再開、現在に至る。

幾度となく困難を乗り越えてきた早慶戦も今年で110周年を迎える。今回はどんなドラマをみせてくれるのだろうか。 (在間理樹)