「甲子園出場を決めた時は喜びよりも安堵の方が大きかったですね」

そう話すのは、プロ野球・北海道日本ハムファイターズなど3球団で活躍し、2015年に現役を退いた森本稀哲さん。帝京(東東京)の主将として20年前、夏の高校野球東東京大会決勝で二松学舎大附に8–3で勝利し、当時3年生にして初めて甲子園への切符を勝ち取った。

森本さんが出場した第80回記念大会は、「平成の怪物」こと松坂大輔選手(現中日)、和田毅選手(現ソフトバンク)、杉内俊哉選手(現巨人)、平石洋介選手(現楽天代行監督)など、のちにプロでも主力級に成長した選手が数多く出場していた。ライバルたちについて「すごいなと思っていた。けど同時に負けられないなとも」と語る。

甲子園での初陣は「台風による順延であまり練習ができず、体がなまっていた」。球場の独特な雰囲気に圧倒されたと語る。

2回戦は長崎日大高(長崎)に4–1で勝利。そして3回戦で、和田投手擁する浜田(島根)と対戦した。「とても印象的な試合」と振り返る。

帝京は七回まで和田投手の投球に苦しめられ、スコアボードに0を連ねていた。しかし、2点ビハインドで迎えた八回表に、森本さんが試合を振り出しに戻す2ランを放った。

夏の地方大会前までは調子が悪かった。そこで、夏前の合宿でセンターを中心に強い打球を飛ばす意識で練習に打ち込んだ。その結果、予選大会で「今までに打ったことのないホームラン」を打つことができたという。

そして、この試合でもプロ注目のエースから同様の本塁打。「練習でトライした結果が甲子園でのホームランに繋がった。自分の成長が感じられた試合だったと思います」

試合には3–2で敗れたものの、甲子園に大きな爪痕を残した。

森本稀哲さん=東京都千代田区

甲子園大会に出場してから20年。プロでの17年に及ぶ現役生活の間にも、球児の技術が向上していくのを目の当たりにしてきた。投手は球速140キロ超えが当たり前となり、高卒でプロ1年目から1軍入りする選手が増えた。「自分は7、8年かけて1軍で活躍できるようになったので、すごいと感じます」

そして今、熱い戦いを繰り広げている高校球児たちには、「試合当日、自分の持っている力を出し切れるかどうかに全てがかかっている。それ以上のものを出そうとしなくていい。そのためには最高の準備をするほかないと思います」とエールを送る。

自身にとって甲子園は「チームそのものが形となって表れる場所」。練習の成果、試合の経験がものを言う甲子園のグラウンド上では、ごまかしは一切利かない。わずかな油断や諦めない気持ちが、数々のドラマを生み出してきたのだろう。

(松本功)

森本稀哲(もりもと・ひちょり)

1981年1月31日生まれ、37歳。帝京高では98年夏の大会に主将として甲子園に出場し、3回戦敗退。同年、ドラフト4位で日本ハムファイターズ(当時)へ。

プロ入り後、ベストナイン1度、ゴールデングラブ賞3度受賞。2006年ポストシーズンには、日本シリーズで最高打率を記録し、優秀選手賞を受賞するとともに球団44年ぶりの日本一に貢献した。

その後、DeNA、西武を渡り歩き、15年に引退。野球解説、テレビ出演、講演など活動の幅を広げている。