アメリカ軍からの空爆により、わずか2時間で10万人以上が犠牲になった、1945年3月10日。あの日から今年で78年。当時の惨状を知る人は減少しているのが現状である。世情が不安定な今、漠然とした不安を抱えている人も少なくないのではないか。そんな今だからこそ伝えたい戦争の悲惨さや、平和の尊さについて考えるべく、東京大空襲・戦災資料センターへ足を運び、空襲を経験した白石氏の話を聞く機会を得た。

白石氏が東京大空襲を体験したのは7歳の時であった。母からの「暗い方向を目指して逃げろ」という号令で、3歳年上の姉に手をひかれて、ひたすら燃え盛る東京の街の中を走っていたという。周囲に火の手が迫る中、必死に逃げてたどり着いたところは、旧三河島汚水処分場であった。まだ夜が明きれないない、燃え盛る下町一帯をぼんやりと眺めていたと回想する。当時の惨状で白石氏の目に焼き付いたものは、路面電車の中に見えた黒い人影であるという。また、あたり一面が焼け野原となり、ところどころに焼死体があった悲惨な光景を振り返り、平和の尊さを訴えた。

「これからも自分が元気なうちは伝えていきたい」と白石氏。東京大空襲についての書物は数多く存在する一方で、専門的に常設しているのはこの東京大空襲・戦災資料センターのみであることを強調し、沢山の人々に足を運んでほしいという願いを口にした。

同センターには、当時の惨状を伝える展示物が多く展示されている。展示の最後のコーナーには、来場者の想いが綴られた一冊のノートがあった。日本人のみならず、中国やアメリカから足を運んだ人々の想いもみること ができた。人々に共通した想いは、「戦争をしてはいけない」という強い確信である。同センターの展示や証言を通して、訪れる人々に平和の尊さがしっかりと届けられているということを実感した。

展示は、東京大空襲の実相をわかりやすく伝えるべく、「個人」とその「体験」 を重視しているという。当時の惨状を知るための、人々の記録・絵画や、経験者の証言がそこにはすべて揃っていた。無差別攻撃を受けた日である3月10日のみならず、戦時下の日常や空襲後のあゆみが時系列順に展示されていて、時空を超えて体験者の存在をありありと感じさせられた。

現在、語り手の数は減少していて、今こそ体験者から「継承」をする最後の時である。白石氏は、「体験者に代わって、君たちが体験者から継承していくことが大切。戦争を知らない人に一人でも多く伝えたい」と強調した。世界情勢が不安定な今だからこそ、今一度立ち止まり平和について考えてはいかがだろうか。ぜひ、一人でも多くの塾生に東京大空襲・戦災資料センターに足を運んでほしいと願っている。

白石さんからのメッセージ

この春、卒業する方、入学する方、おめでとうございます。 話は 78 年前に遡ります。私は 7 歳の時、「東京大空襲」遭遇し、多くの市民が犠牲になるなか、幸い逃げ延び85歳まで生きてこられました。

日本は敗戦し、天皇制・軍国主義の国体を変え「新憲法」を制定しました。天皇は象徴で、国権の発動による戦争は行わないと定めました。

その憲法のおかげで、今日まで日本は戦争をしていません。

戦争はいけません、紛争は話し合うことで解決しなくてはなりません。

皆さんも、これから社会人になり外国へ出かける機会も多くなると思います。戦争を放棄した素晴らしい「憲法」をもっている国民として、外国人に「戦争放棄した国」 だと話してください。皆さんは、いつでも外交官です。戦争を知らない国民になりましょう。

宮本紗耶佳