小沢健二、小山田圭吾、ピチカート・ファイヴ……。現在でも色褪せない数々の名盤を世に出してきたアーティストは、90年代半ば「渋谷系」と呼ばれていた。

音楽プロデューサーの牧村憲一さん

渋谷系の音楽ジャンルは、ネオアコ、サイケロック、ソウルなど幅広い。彼らをつなぐ「渋谷」とは何か。渋谷出身の音楽プロデューサー、牧村憲一さんは「もともと渋谷独自の音楽というのは影も形もなかった」と話す。

1970年代、若者の中心地は新宿であり、まだ渋谷にブランド的な意味合いはなかった。転機が訪れたのは、堤清二が率いる西武流通グループ(後のセゾングループ)の進出だ。68年、明治通り沿いに西武百貨店、73年にパルコをオープンさせた。堤はこれらを起爆剤に、渋谷と原宿をつなぎ広大なファッションエリアを形成しようとした。結果的には叶わぬ夢となったが、文化的には原宿と渋谷はつながった。音楽も例外ではなかった。

70年代後半、竹下通りに輸入盤専門店がオープンし、コアな音楽ファンが集まるようになった。原宿で起きた波は渋谷にも広がる。80年代、宇田川町周辺ではマンションの一室を借り、小さなレコード店を開く人が増えた。「それぞれの店に同じような趣味を持った『偏った人たち』が集まるようになった」。そう牧村さんは振り返る。

そんな渋谷に集う音楽ファンにとって憧れの存在が、英国のレコード店「ラフ・トレード・レコード」だった。ラフ・トレード・レコードは、客として訪れたミュージシャンを、レコード店が基盤となってインディースデビューさせていた。

やがて英国と同じ波が渋谷にも訪れる。渋谷を訪れたリスナーが、ミュージシャンとなったのだ。その膨大な音楽の知識を生かして、「聴いた楽曲の良いフレーズを利用して、オリジナルを創作する。ヒップホップと同じ手法を当てはめたのが渋谷系の特徴」だという。

インターネットが普及する現代において、場所を拠点とした音楽は生まれるのか。牧村さんは、音楽に限らず文化は物理的空間を要さないとしながらも、「音楽を一人で作ってはいけない」と話す。同じ空間に集い他人と意見を共有することで良い音楽、文化が生まれるのだという。「街には公園が必要」だと訴える。

リアルな空間での人やレコードとの出会いは、一見偶然とも感じられるが必然であろう。そうした交流が、新しい音楽を創り上げていく。「渋谷系」という言葉を一人歩きさせず、そのマインドを忘れずにレコードに針を落としたいところである。

(山本啓太)