《東京いろは》浅草 新しい娯楽を発見

東京いろは

浅草東洋館 挿絵=鈴木裕(環3)

「浅草」と聞いて何を想像するだろう。雷門、仲見世通りなど、浅草寺の南側一帯の風景を思い浮かべる人が多いだろう。浅草はかつて「流行の最先端」と呼べる地だった。

浅草芸能史に詳しい江戸川大学の西条昇教授によると「江戸時代、浅草寺周辺で、サーカスのような興行や、生人形など見世物小屋が立ち並んだ」という。付近は「奥山」と呼ばれ、にぎわいをみせた。

江戸川大学の西条昇教授

明治時代、政府は西洋に倣って公園を整備することを決めた。浅草寺周辺は「浅草公園」として七つの区画に分けられ整備された。

見世物小屋は、「六区」と呼ばれる区域に移転した。六区はもともと田んぼが広がる何もない地域だったが、開発により大きく栄えた。

大通り沿いには芝居小屋が立ち並び、付近には当時日本で一番高い建物だった「浅草十二階」や、水族館、人造の富士山などが建てられた。

今では日本最古の遊園地として有名な花やしきは、名前の通り植物園だった。しかし園内では、動物が飼われたり、猿芝居が行われたりした。「花屋敷はエンターテイメントを取り入れる宿命だった。浅草は新しいことをやらなければいけない場所の空気があった」と西条教授は語る。

その後、明治30年代に入ると、「活動写真」と呼ばれた無声映画が流行する。浅草の芝居小屋は一時期半数が、活動写真を上映する小劇場へと切り替わった。流行りものに客も興行主も飛びつく。

大正時代にはオペラ、昭和初期にはレヴューが浅草で流行した。そこでスターになったのが、日本の喜劇王「エノケン」こと榎本健一だ。浅草オペラのコーラスボーイを経て、浅草レヴューでは座長として脚光を浴びる。その後映画界にも進出し、最終的に日比谷の東宝へ移籍し、浅草を去る。

浅草には「新しいスターを後押しする土壌」があると西条教授は指摘する。「渥美清、萩本欽一、ビートたけしといった俳優や芸人は、毎日何ステージもこなすことで自然に実力が身についていく。歌舞伎みたいな閉じられた世界ではなくて、人気が出れば出世ができる実力主義」

戦後、浅草は時代の波から取り残される。大きな要因としてテレビの台頭と、新宿、渋谷といった山の手地域へ文化の発信地が移ったことだ。

しかしここ数年、インバウンドの効果が浅草に現れ始めている。数年前には、大手事務所が劇場を作った。さらに、浅草のストリップ劇場では、能やシェイクスピアを題材にし、レヴュー形式で演じている。

浅草では新しいムーブメントが再び動き出している。浅草発の新しいエンターテイメントを探しに行くのはいかがだろうか。

(山本啓太)