慶應塾生新聞会 三田オフィス
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【人工知能の行方⑤】侵された人間の「聖域」

敗者は頭を下げ、自らの負けを認めた。勝者は一貫して、無言だった。2‌0‌1‌3年に行われた第2回電王戦では、現役のプロ棋士5人と5つの将棋ソフトウェアが団体戦を行った。第2局で佐藤慎一(当時四段)が「Ponanza」に敗れたのを皮切りに、人類は3敗を喫した。それ以降、「コンピューター将棋はプロ棋士を超えた」という声も聞こえ始めた。少なくともコンピューターに簡単に勝てる時代が終わったことは誰の眼にも明らかだった。

将棋は対局中に取った相手の駒を、自分の駒として使えるゲームだ。そのことがこのゲームを複雑で、面白いものにしている。考えられる局面の数は、駒が減っていくチェスなどと比べて遥かに多い。よってどれだけ性能が向上しようと人間を超えることはできない。そう言われてきたし、ある時点までは確かに、将棋ソフトの実力は決して高くはなかった。

将棋AIに革命を起こしたのは「評価関数の自動学習」そして「全幅探索」というシステムだ。評価関数とは、簡単に言うと今どのくらい有利か、次に指そうとする手はどれくらい良い手か、を評価するものだ。コンピューター将棋は初めてこのシステムを導入したソフト「Bonanza」の登場以降、過去のプロ棋士の対局データに加え、将棋ソフトを使って繰り返し対戦することでこの評価関数を自動的に生成するようになった。

そして「全幅探索」は、考えられるすべての指し手を考えるということだ。これによって、人間であれば切り捨ててしまっていた手順の中に、あっと驚くような新手が生まれている。

「私個人の意見ですが、多くのソフトがアルゴリズムやソースを積極的に公開したことも、進歩のスピードを上げました」とコンピュータ将棋協会の瀧澤武信氏はいう。

将棋AIはこのようにいくつかのブレイクスルーを経験しながら、徐々に力をつけた。その進歩はついに、AIの到達できない「聖域」のように言われてきたプロ棋士に勝利するというステージにたどり着いた。

「聖域」の崩壊を象徴するのが、現役のプロ棋士がコンピューター将棋に敗北した最初の対局となった先述の佐藤―Ponanza戦だ。瀧澤氏は立会人としてその瞬間を目の当たりにした。「結果に驚いたのと同時に、コンピューター将棋が勝つと思っている人が多いこと驚いた」と当時を振り返る。

コンピューター将棋は、人間の経験や機転によって戦われていた将棋というゲームを、数式で計算できるものに変えてしまった。人々はそのことに気づき始めたのだ。

今後将棋における人間とコンピューターの関係はどうなっていくのだろうか。瀧澤氏は「将来的に人間はコンピューター将棋に敵わなくなる」と予想する。現在はプロ棋士と将棋ソフトが互角である非常な特殊な状況にある。「人間が負けてしまったからといって、人間の能力が否定されるわけではありません。自動車より遅い人間が1‌0‌0メートル走で感動を生むように、人間同士の対局も心を動かします」

将棋ソフトは疲れない。焦りもしない。技術が進歩すれば将棋の完全な「証明」が完成し、正確な手を指し続けるソフトが登場するかもしれない。そのとき誰もソフトに勝つことはできなくなる。それでも、81マスの世界で繰り広げられる人間最高峰の頭脳のぶつかり合い、プロ棋士の表情と息遣いは人間らしい魅力をたたえている。

将棋界におけるこの出来事が私たちの生活に直接影響を与える訳ではないだろう。しかし、コンピューター将棋の進歩で得られた発見は他のAIにも応用できるかもしれない。そしてAIというのは、人間が培ってきた価値観・経験に縛られない新たな可能性を示してくれる存在になり得るのではないか。AIが新たなアイデアを提示してきたとき、人間はどう評価するのか。AIが人間の行動を評価するとき、人間はその判断を信じられるのだろうか。終局はまだ先だ。
(安田直人)

【連載】人工知能の行方