台湾に関するガイドブックで大きく取り上げられることは少ないためか、花蓮そのものに聞きなじみのない人もいるかもしれない。だが、ひとたび街を歩けば、この地は日本と密接な関わりがあるということに気づく。学校や病院などは、日本統治時代から同じ場所にその施設が置かれている。また、流通しているコメは日本人が品種改良に取り組んでできたコメがもととなったものだ。1895年、清朝との戦争で台湾を手に入れてから第二次世界大戦の終結までの50年間、日本が台湾に総督府を置いて統治にあたった歴史。花蓮では、今でも色濃く残るその痕跡を知ることができる。

日本統治以前、漢民族が移民してきた西側とは対照的に、東側は標高3000メートル級の険しい山脈に囲まれた、いわゆる未開の地だった。山脈に住み太魯閣まで移住してきたタイヤル族(タロコ族)や平地のアミ族といった先住民(現地の言葉で原住民)がこの地に住んでいた。タイヤル族は狩猟生活を営み、男性は額と顎、女性は額と頬に入れ墨を入れ、それぞれ一人前になったということを示した。アミ族は農耕を営み、豊年祭において女性が踊っている男性を見て結婚相手を決めるという独特の風習を持っていた。

彼らはかつて「首狩り」を男性の通過儀礼として、また自らが強い人物として名を上げる手段として行っていた。首狩りとは人の首を狩ることだ。身体能力の高さに加えオランダ人から手に入れた銃を使い、敵対部落や異部族を襲って取った首を棚に並べて誇示した。

こうした先住民の身体能力の高さに日本の入植者は苦しんだ。日本は先住民に帰順を求めるも、戦いによってお互いに多くの犠牲者を出した。統治が始まって間もなく、日本軍の一人が先住民の女性を強姦し、報復に日本軍13名が殺害される新城事件が起きた。先住民の討伐が落ち着いたのち、現場には新城神社が建立され、すぐそばには日本人を悼む石碑が置かれた。戦後、この神社を教会に作り変えることで中国国民党政府による破壊を免れ、現在は鳥居や石灯籠とともにマリア様の像が並んでいたり、教会の建物の中に日本式の手水舎があったりと、独特な姿で残る。

第二次世界大戦後、東側の花蓮から西側の台中まで山脈を縫って東西横貫公路がつくられたが、この道路は日本統治時代に兵隊や警察隊が切り拓いた道がベースになっている。その旧道を太魯閣渓谷で見ることができる。高さ最大600メートルにもなる谷は対岸が目の前に迫るほどの狭さで続き、川のそばには巨大な大理石がごろごろと転がっている。傾斜の厳しい地形であるため、切り立った高い崖の一部を削って道路が作られ、警察の駐在所が置かれた。まさに命がけの作業であり、落ちればひとたまりもないこの道を通るのもまた命がけだった。日本にはないスケールの景色に心が洗われるとともに、このような険しい場所に道を作った原住民や日本人といった先人たちの勇気に心を打たれるのだった。

片桐秀明さん(左)と妻の郭雪夙さん(右)

「ただ美しいだけじゃないんです」と片桐さんは街案内をしながら、日本統治の歴史や今に残る遺物について丁寧に解説してくれた。開拓と統治の苦労がこの地に刻まれている。人々がこの地に惹きつけられるゆえんはここにある。

歩いておなかがすいた記者らは食事に出かけた。花蓮の街中では、美味しい料理店がたくさんある。程よい薄味の料理が多いので、日本で食べる料理よりもひょっとしたら食べやすいと感じるかもしれない。現地の人々は温かく親切だった。言葉は違ってもバスを教えてくれたり、困っているように見えたのか、わざわざ車から話しかけてくれたりする人がいた。

地震が起こって20日足らず、滞在には不安もあり、心配もされた。だが、3日間の滞在を終え、「行ってよかった」と今は心から言える。地震が過度に不安をあおり、人々を遠ざけているのなら実にもったいない。むしろこれを機に認知度が今までより上がり、興味を持つ人が増えればいいのに、と願う。距離はあっても、日本とこれほど深くつながっているのだから。

(杉浦満ちる)

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