モリー先生との火曜日 読書は、極めて能動的な行為である。同じ本でもその時自分が背負っている過去の経験、心理状態によって以前とは大きく異なったものに感じられたりする。だから本は、楽しい。本はただ黙ってそこにあるだけであり、以前と違ったものとして読めるのは、本がいつの間にか変化したわけではなく、読み手の方が変化したからである。「本は積んでおくもの」と昔恩師に言われたことがある。その時はどういうことかわからなかったが、本は一度読んだら終わりではないことをおっしゃっていたのかもしれないと今では思う。

プロのアスリートたちは、試合中、本当に集中している時は、自分がどんな風に動いたのか思い出せないが、無意識のうちに最高の状態で体を動かしていることがある。このような状態を「ゾーン」と呼ぶらしいが、運動選手の中にはこのゾーン体験の心地よさが忘れられずに運動を続けてしまうケースがよくあると聞く。読書にも同じような瞬間がある。大学院生のころ、まるで接点のなかった何冊かの本があるとき突然一本の線で結びついたことがある。いろいろ読み、考えていくうちに自分の中の何かが変わった結果であろう。目の前が急に広がり、世界が一変した。その日は興奮して眠れなかったのを今でもはっきり覚えている。この「読書のゾーン」(パラダイムシフト)の感動が忘れられず、またあのような経験ができるのではないかと思い、私は今も本を読み続けている。

本題に入ろう。私のお勧めは「モリー先生との火曜日(Tuesdays with Morrie)」(Mitch Albom著、邦訳は、別宮貞徳訳、NHK出版)という本である。舞台はアメリカ。90年代、ベストセラーになった本で、平均的なアメリカ人なら、この本の主人公の名前を一度は耳にしたことがあるはずである。元大学教授モリー・シュワルツ先生があるとき、余命2年と宣告をうける。病名は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)。徐々に筋肉が衰え最後は呼吸もできなくなる難病である。先生は、残された人生を自分らしく生き抜くことを決意し、周囲の人に自分の死を見つめ、そこから何かを学べという。この本は、余命いくばくもない恩師の姿を偶然テレビで見かけ、あわててとんできた著者ミッチ・アルボム氏が、先生が亡くなるまで毎週火曜日先生の自宅を訪問し、愛、死、生、家族など様々な問題について一対一で語り合った記録である。この本は、一人の老人の「死」を悲しむセンチメンタルな本ではない。モリー先生が「どうやって死にたいのかわかれば、どうやって生きたら良いのかもわかる」と言っているように、生き方を考える極めて前向きな本である。今の自分の経験と照らし合わせながら、じっくりと咀嚼してほしい。今、この本を読んでわからない、共感できない部分がたくさんあっても、もちろん構わない。手元において、時間を経て、さまざまな経験を積んで、ふと思い出した頃に、また読み直して欲しい。きっと10年、15年と経つうちに、以前とは異なる読み方ができることであろう。

篠原 俊吾 法学部教授。
1963年東京生まれ。1998年慶應義塾大学文学研究科博士課程修了。専門は認知言語学。著書に「『悲しさ』『さびしさ』はどこにあるのか」(『認知言語学Ⅰ:事象構造』東京大学出版会)、「換喩と形容詞」(『レトリック連環』風間書房)。