シリーズ ~決断のとき~ 第三回 梅沢由香里氏

 今回は、梅沢由香里さん34歳。その美しく常に微笑を絶やさない表情からは想像しがたいが、彼女は五段の囲碁棋士であり、現在、実質的に女流棋士のトップである。

 小学1年の頃、父親から一緒にはじめようと碁盤をプレゼントされたのをきっかけに、囲碁を始めた梅沢さん。父親に負けると叱られる一方、勝ったときはごほうびをくれた。負けたくない一心で続け、始めて1年足らずで父親を抜いていた。

 「でもその頃は、ごほうびが嬉しくて囲碁をやっていたのか、囲碁が楽しくてやっていたのか分らないです(笑)」

 転機が訪れたのは、14歳のとき。「殺し屋」と異名を持つ加藤正夫九段プロと碁を打った際に、「プロにならないか」と入門を勧められた。それは、野球少年がイチローに弟子入りを勧められるようなもの。

 「本当にうれしかったです」と、梅沢さんは子どものようなあどけない表情で話す。

 彼女はやや受動的にではあるが、あえていばらの道を選び、加藤正夫九段に入門。ひとつ、大きな決断を下した。

 加藤正夫九段師匠のもとでの修業は、中学生にしては多忙な日々。平日は毎日学校帰りに師匠の家で修行し、週末は日本棋院での対局。学校行事にもほとんど参加できなかったが、3人の兄弟子に可愛がられ、修行の日々も楽しかったという。

 辛かったのは、当然受かるといわれていたプロ試験に何度も落ちたこと。「14、5回受けてもあと一歩のところで不合格。次第にやる気が失われて」紆余曲折を極めた。

 そんな中、梅沢さんは92年に慶應義塾大学環境情報学部に入学した。

 「SFCって世界が広くて楽しいじゃないですか。だからもう囲碁なんか辞めてやるって思いました」

 大学2年で囲碁と線を引いた。今までの生活がストイックだった反動で、飲み会や合コンに参加した。授業をさぼって江ノ島の海岸で過ごす時間は新鮮で、刺激的だった。

 大学3年生になり、周りの友人が就職活動を前にして自分探しを始めたころ、父が他界。「本当にやりたいこと」を自分に問いかけてみると、囲碁しかなかったという。

 「そのころ一番悩みました。でもやはり私を何よりも興奮させ、激しい感情を持てるのは囲碁しかなくて」

 今まで「レールの上を走らされていた」彼女は、ふたたび囲碁の世界へ戻る決断を、しかし今度は能動的にした。

 それでもなかなか一位になれず、プロになれない。「優勝候補筆頭」だったリーグ戦でも次点で不合格。いままで何度も受からなかった悔しさ。そしてまた受からないかもしれないという不安から満員電車の中で、思わず涙がこぼれた。

 だが、大学卒業間際の4年生の12月、ついに「合格」した。まっ先に報告した母は、電話の向こうで泣き、師匠も「そう」と静かに喜んでくれた。「生涯これ以上の喜びはないと思うくらい、最高の瞬間」だったという。

 こうして見事プロとなった梅沢さん。驚愕の早さで昇段し、子ども向けの囲碁漫画「ヒカルの碁」では監修を担当。日本をはじめ中国、台湾などでも囲碁ブームを巻き起こした。そして、昨年から今まで実質的に女流棋士のナンバーワンの証しである「女流棋聖」のタイトルを守り続けている。

 取材中、彼女は幾度か余裕をもって言い放った。

 「願えばかなう、と今はそう信じています」  

 決して「願いはかなう」とは言わなかった彼女の言葉には、彼女をここまで動かしてきた強い原動力が垣間見えた。

(宮島昇平)

梅沢由香里 1973年東京生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。全国学生本因坊戦3位、全国本因坊戦東京大会優勝など。96年プロ棋士として活動を始める。 07年3月に女流棋聖戦に優勝し、女流囲碁棋士のトップに。マンガ「ヒカルの碁」の監修も務める。07年4月には東邦大学理学部情報科学科客員教授に就任。著書『ゆかり先生のやさしい囲碁』ほか。


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