元国際通貨基金(IMF)理事、 慶大大学院商学研究科教授

1950年生まれ。経済学部卒業後、旧大蔵省に入省。1977年プリンストン大学ウッドローウィルソン・スクール修士課程修了(公共・国際関係)。証券局証券市場課長、金融企画局総務課長、財務総合政策研究所次長などを歴任。国際機関にはエコノミスト、幹部職員、日本代表理事としてアジア開発銀行と国際通貨基金(IMF)に計4度勤務した。2007年に国際通貨基金理事を退任し、現職。
1950年生まれ。経済学部卒業後、旧大蔵省に入省。1977年プリンストン大学ウッドローウィルソン・スクール修士課程修了(公共・国際関係)。証券局証券市場課長、金融企画局総務課長、財務総合政策研究所次長などを歴任。国際機関にはエコノミスト、幹部職員、日本代表理事としてアジア開発銀行と国際通貨基金(IMF)に計4度勤務した。2007年に国際通貨基金理事を退任し、現職。

「東京六大学野球から突然メジャーリーグに行かされたようなもの」
初めて国際機関へ出向した時の印象を柏木茂雄氏はこう表現する。周囲は当然のように経済学などの博士号を持つ、世界各国から集まった論客ばかり。現アメリカ財務長官のガイトナー氏とともに働いた時期もあった。
国際通貨基金(IMF)など国際機関での勤務は通算で12年に及んだ。柏木氏の場合は日本の官庁からの出向というかたちでの勤務であったが、ほかの同僚たちの経歴は様々。国際公務員として多様な同僚たちと働いた日々は非常に刺激的だったようだ。
国際色豊かなキャリアを歩んできた柏木氏だが、大学入学直後は民間企業への就職志望。国際公務員はおろか、国家公務員になろうという気持ちすらほとんどなかった。課外活動では体育会水泳部の活動に打ち込み「ひたすら泳ぎ回っていた」という。
転機となったのは1年生の春休みに参加した米国スタンフォード大への交換留学。友人の勧めで気軽に参加したが、ここで「目を見開かされた」。
「いかに自分が狭い世界観の中で生きてきたか、よく分かった」
様々な志を持った外国の学生との交流などを経て、「公のために働きたい」という希望が次第に強まったという柏木氏。大学時代の後半、ついに一念発起して国家公務員試験の受験を決意する。
「後になって『やはり受験すれば良かったな』と絶対悔やみたくなかった」と柏木氏は当時を振り返る。数カ月の猛勉強の末合格し、大蔵省(現財務省)に入省した。
出向先の国際機関だけでなく省内においても財政金融政策の最前線に立ち、証券局時代は日本版ビックバンと呼ばれた証券市場改革に従事した。
内外の様々な職務を経た今、柏木氏は大学での勉強についてどのように捉えているのだろうか。
「振り返ってみて重要だったと思うのは『自分の頭で考えること』。大学時代は表層的な知識を暗記するのではなく『あの先生やあの本の主張は本当なのだろうか』と常に疑い、自分の考えをつくり出せるよう努力することが大切」
また柏木氏は入学から卒業までの間、所属の学部や専攻を変えることが極めて稀な日本の多くの大学のあり方には疑問を抱くという。
「18歳前後で決めた将来の希望は変わることが多い。学生は自分の決断に責任を持たなければならないが、大学や社会全体も転部制度の積極的な整備など、『学生の移り気』に対してもっと寛容になるべきではないか」
現在、柏木氏は商学研究科の教授として母校の教壇に立つ。同研究科は世界銀行の奨学プログラムを通じて途上国の政府職員などを毎年受け入れており、柏木氏は主としてこうした留学生を対象に国際金融などに関する講義を英語で行っている。
「日本人学生に対しても英語による講義を積極的に行うべき」と話す柏木氏は、今の日本が「国内の些細な出来事に気をとらわれて内向きになり過ぎている」との危機感を持つ。
「現在の日本の大学生とほぼ同じ年齢にあたる時、福澤諭吉は自ら外国語の学習に積極的に挑戦し、慶應義塾の前身となる蘭学塾を創立した。そのことの意味をよく考えてほしい」と柏木氏は語る。
「学生はもっと海外の事象に興味を持ってほしい。興味さえ持てば、読むべきものも為すべきことも自然と探せるようになる。その上でチャレンジ精神を忘れないで欲しい」
氏の研究室の本棚を見上げると、国内外の論者による書籍・リポートの世界が広がっていた。
国境を越えた情報・活動がさらに重要となる現代。柏木氏のようにまず精神的な鎖国を解くことが、学生にはこれまで以上に求められているだろう。
(花田亮輔)