日々学生たちでにぎわう日吉キャンパス。この明るい風景から、ほんの65年前、ここが日本海軍の連合艦隊司令部だったことを想像できるだろうか。1943年、20歳になった男子学生は戦地へと赴いていった。自由主義を掲げる慶應義塾が戦争の波にもまれていったという事実。キャンパスに残された遺跡とインタビューから、忘れてはならない義塾の歴史をたどる。

(遠藤和希、金武幸宏、佐々木真世)


 

白井氏と松浦氏が語るアジア・太平洋戦争

 

・戦地に赴く塾生たち 「歴史を振り返る勇気を」

1943年。アジア・太平洋戦争が激化する中、東條英機政権下で学徒出陣が断行され、慶應義塾からも多くの学生が入隊した。戦時下における慶應義塾の様子はいかなるものだったのか。そして戦地に赴く学生の心情とは。今回我々は、慶應義塾大学名誉教授・白井厚氏、慶應義塾大学在学中に学徒出陣した元特攻隊員・松浦喜一氏にお話を伺った。
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1937年の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。その4年後には日本と英米間で太平洋戦争が始まった。当時の日本では皇国史観が支配的な地位を占め、国民は忠君愛国を信条としていた。軍国主義が日本を覆い、教育の現場でもそれが正当化されていった。

慶應義塾も例外ではなかったという。白井氏は戦時下の大学の状況に関して次のように話す。「大学内でも配属将校はもちろん、特別高等警察(特高)も来ていた。授業では国防論などの軍国主義的な講義が増え、教練(戦闘のための訓練)も次第に厳しくなっていった」

学内とはいえ自由主義や共産主義は厳しく弾圧され、戦時色が強くなった。自由主義の経済学や営利を目的とする商学は白眼視され、代わりに戦地経営論といった学問が導入された。
それでも従来の法律において大学・高等学校・専門学校などの学生は卒業まで兵役が猶予されていた。加えて、慶應義塾は当時の小泉信三塾長などが戦争に協力的であったため、特高などによる監視はそれほど厳しくはなかったという。塾生は比較的自由に学問に取り組むことができたのだ。

状況が変わったのは1941年。アジア・太平洋地域に及ぶ広大な戦線の維持や、戦局の悪化による戦死者の増加などから下級将校が不足。兵力を補うため、次第に卒業が早められていった。
まず41年に学生の修業年数を3カ月短縮。翌42年には6カ月短縮し、徴兵検査を経て入隊させた。当時、大学に進学する者は全体のわずか2%で、社会的にもエリートとされた。一方で学生は徴兵猶予といった特権を有していたため、一般社会からは羨望や嫉妬などの感情を向けられていた。そんな中で、学生を戦力として動員することは、日本国民全体に総力戦を強いる象徴的な出来事となった。

43年10月、当時の東条英機内閣は在学徴集延期臨時特例を公布。学生の兵役猶予を停止し、20歳以上の男子に対し徴兵検査を実施。彼らを軍隊に動員した。教練を受けた学生は優秀な戦力と考えられるようになり、とりわけ航空兵力になりうる学生は重用された。

戦時下の慶應義塾について語る白井氏
戦時下の慶應義塾について語る白井氏

「学生たちの一部は出陣の覚悟はしていた。慶應義塾の学生の親には特権階級もいて、学生も徴兵されるとの情報は流れていたから」。白井氏は当時の状況をこのように語る。
では出征前の学生たちの心境はいかなるものだったのか。白井氏の調査によると、「待ちに待っていた」と勇んで戦地に向かったのは全体の約2割に過ぎなかったという。一方で、体質上軍隊は向かない、あるいは反戦思想を持つなどの理由で、嫌がった学生が約1割。残りの約7割の学生は、戦争なので仕方がないと考えたようだ。「戦死した友人に申し訳ない」「建国以来の祖国の危機において、命が惜しいとは言えない」といった感情をもつ学生も多かったという。

政府によるプロパガンダも盛んに行われた。中でも「米英の学生は立ち上がっている」といった主旨の情報は日本の学生を奮い立たせた。小泉塾長も「戦争が始まった以上は、必ず勝て」と塾生を激励したという。入隊は通常休学扱いであったが、退学して軍に行く者もいた。何人もの学生が命を捨てる覚悟をもって戦地に向かったのだ。




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生き残った特攻隊員、松浦喜一氏は慶應義塾大学在学中の1943年12月に、学徒動員の時をむかえた。
「当時の日本人にとって、戦死は聖戦での名誉であるという考え方が一般的であった。反戦を唱えた人々はごく一部。学生たちにとっても、学徒出陣に反抗することは、監獄に入ることを意味していた。20歳を迎えて戦争に行くことは、絶対的なものであって反対することは考えられなかった」。松浦氏は学徒出陣の際の思いについてこう語る。

43年明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が行われたが、東條英機の強圧的な姿勢に反感を感じ、実際は参加しない学生も多かったという。
学生が軍隊に入ること。それは学業を捨てて完全な兵隊になることを意味した。共に過ごした仲間とは離れ離れになり、軍隊での生活がはじまる。
松浦氏は台湾台中飛行場、陸軍富士飛行場等に配属され、1年の飛行訓練を積んだ後、1945年の5月、第144振武隊(特別攻撃隊)に配属されることとなる。
特攻出撃とは、爆弾や爆薬を搭載した戦闘機が、乗組員ごと敵にぶつかっていく戦法である。陸海軍あわせて特攻作戦による特攻死は約6000人であった。
6月19日の午後3時、松浦氏は鹿児島県万世飛行場から沖縄に向けて、戦闘機に乗り込んだ。当日の午前中に下った突然の出撃命令だった。
乗組員の必然の死を意味する特攻出撃。命令が下ったとき、当時22歳のパイロットはどんな思いに駆られたのか。

自らの戦争体験をふりかえる松浦氏
自らの戦争体験をふりかえる松浦氏

「特攻出撃で命を落とすのも致しかたないことと思っていた。日本中で空襲がおき、大勢の人が死んでいる現状があった。戦争が行われている以上、死を拒むことはできないと感じていた」
現代の若者が、自分たちと同じような年齢の特攻隊員達の出撃への思いを想像するとき、死への恐怖や悔しさを思い浮かべるだろう。

しかし当時の特攻隊員は、命令を突き付けられた時、自らの死を受け入れた。「戦争だから死ぬしかないのだ」。若者に死を「しかたのないこと」と冷静にとらえさせてしまうのが、戦争の恐ろしさだった。
沖縄に向かっていた飛行機3機は、悪天候のなか飛び続け、1機は墜落。沖縄を発見することさえできない視界の中で、隊長機が引き返すことを判断した。その決定に従った松浦氏は、生還することとなった。
「多くの人たちが、戦争の犠牲となって死んでいった。私は生き残った者として、死んだ人の気持ちを探求し続ける責任がある」
戦争に行く理由に疑問を投げかけることすら禁じられた体制によって、若者は命を落としていったという。
「『自分が死ぬ理由を天皇という言葉だけで片付けないでくれ!』と思いながら、死んでいった人々がいる。特攻隊の戦没者の慰霊は称賛・美化型に変わってきているが、彼らは、戦争の犠牲者だと思う」

松浦氏はアジア・太平洋戦争について学びながら、自身の体験談を講演し続けてきた。毎年、経験をふまえた戦争への意見を遺書として出版し続けている。




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出陣した学徒はその後、さまざまな形で命を落としていった。米軍の航空機に爆撃された者、南方の戦地にたどり着きながらも飢餓で倒れる者、疫病に感染する者……。もちろん死線から生き残った者もいる。しかし戦後の彼らの生活が過酷であったことは言うまでもない。
こうした事実を、昨今の学生は歴史の一齣としてしか捉えられなくなってきている。高々64年前の出来事であるにも関わらず。
白井氏は学生に対し次のように語る。「平和を守るためには戦争の研究が必要。何が歴史の真実かを突き詰めなければ、正しい道は拓けない」
松浦氏は、現代の学生に対し、日本国憲法の問題を伝えたいと話す。「現代の日本で、平和の要である憲法9条が、本当に守られているのかを考えてみて欲しい」

現代の大学生は、戦争の影が完全に消されたかのような日本で生きてきた。今一度自分たちと同じ年頃の命を奪い去った歴史を、見つめ直すことが必要である。