『ワタスキ』。この愛称を聞いて懐かしさを感じる人も多いのではないだろうか。『私をスキーに連れてって』は、1‌9‌8‌7年の公開後一大ブームを巻き起こした青春映画だ。公開30周年にあたる2‌0‌1‌7年、JR東日本のキャンペーン「JR SKISKI」でコラボしてリバイバルしたのも記憶に新しい。

長く愛されてきた『私をスキーに連れてって』。しかし、この作品を手掛けた映画プロデューサーで塾員の河井真也さんによれば、ヒットは想定外だったという。当時この映画は2本立て上映のうちのサブ的な映画であった。レコードで言えばB面の扱いである。

期待値が決して高くなかったのは、「今までにないもの」を作ろうとしていたからだった。当時「映画」といえば、黒澤明監督など名のある巨匠が手掛けるもの。『私をスキーに連れてって』は、こうした概念から外れた風俗映画として、映画界や映画ファンから批判を受けた。「松任谷由実の曲をバックにしたプロモーションビデオのような映画なんて認めない」。そういった声もあった。

それに対し「同世代が良いと思ってくれればそれでいい」。河井さんをはじめとする制作陣は映画界に囚われない発想を広げていた。「遊び」をテーマにした映画が珍しいからやってみよう、「スキー」をテーマにした映画がないからやってみよう――。こうして若いスタッフを中心に新しい題材にチャレンジした。

監督は、当時サラリーマンを辞めたばかりの馬場康夫監督が務めた。制作にあたって参考にする映画も少なく、何もかも手探りの状態からのスタートだった。それでも、「面白いものを作りたい、という制作チームの思いに嘘はなかった」と河井さんは語る。

結果的に映画は徐々に人気を集めていった。その要因の中でも、VHSビデオ普及の影響は大きかった。口コミでビデオが爆発的に売れ、ビデオを通して映画が繰り返し見られた。原田知世や三上博史といった、当時映画にしか露出しない俳優を起用したことも、映画が繰り返し観られることにつながったという。




ヒットは映画の外にまで影響を及ぼした。舞台となった志賀高原スキー場は客が殺到し、トヨタのセリカなど劇中に登場したアイテムもヒットした。劇中で原田知世が着用していた白いスキーウェアに影響を受け、若い女性がこぞって同じ色のウェアを購入したという。

「当時はバブルだと意識してはいなかったが、今より来年のほうがいい、来年より再来年のほうがいい、というなんとなくの確信があった」と河井さん。若者が何の屈託もなく全力で「遊ぶ」時代。彼らは遊びのためにお金を使うことも厭わなかった。スキーをテーマにした映画は受け入れられ、消費行動と結びつくことでさらに映画のブームに火がついた。河井さんは「時代にうまくマッチした」と話す。

このように時代を反映した『ワタスキ』は、当時の若者の世代だけでなくその子どもの世代も知られるようになった。語り継がれる理由の一つに、恋愛映画でありながら、キスシーンどころか手を繋いで歩く描写すらないことではないかと河井さんは話す。「シナリオを作るとき最初に決めたんだよね。それで恋愛ドラマができるかどうかって」。気持ちでドキドキできて、きゅんとするものが残る。ドラマ性が高いために、時代に埋もれずに超えられたのだろう。

この映画の後、『リング』をはじめ数々の名作をプロデュースしていった河井さん。「映画を作るときは、いつも自分が観たいと思った映画を作る」という。『私をスキーに連れてって』の根源には、独自の視点から自分のやりたいことを貫く河井さんの姿勢があった。

(西岡詩織)