46年ぶりに夏の甲子園大会出場を果たした2008年、慶應義塾高(塾高)は快進撃を見せていた。松商学園(長野)、青森山田(青森)といった古豪を相手に快勝を収め、ついに準々決勝へと駒を進める。しかし、ベスト4進出を懸けた浦添商戦は苦戦を強いられていた。

1点ビハインドで迎えた十回裏、無死走者なし。背水の展開で代打がコールされ、甲子園のアルプススタンドが沸いた。打席に立ったのは、大柄な体格から「慶應のドカベン」と呼ばれた控え選手だった。

「野球をやっていて、唯一楽しかったと思いますよ。あの打席が」と普久原祐輔さんはその場面を回想する。10年が経った今でも鮮明に思い浮かぶという。

チームでの役割は一塁コーチャーと代打の切り札。ベンチでチームを盛り上げることと、戦況を読んでしっかり準備することが求められる。試合に出るのはいつも緊迫した場面。プレッシャーは計り知れなかった。

甲子園出場が懸かったその年の北神奈川大会決勝でのことだ。塾高は強豪の東海大相模を相手に八回まで2点を追う展開だった。普久原さんは九回に先頭打者として代打出場した。

その大会、普久原さんは準決勝まで3打数ノーヒット。それでも当時の上田監督は「毎試合代打で使う」と明言し、厚い信頼を置いた。

本音では、試合に出たくなかった。それでも「上田さんがそこまで言うなら絶対に準備しなきゃいけない」。上田監督の期待に応えたい、チームの勝利に貢献したいという思いが逆に重圧となり、試合中にベンチ裏で何度も吐いた。

普久原祐輔さん=慶大日吉キャンパス(横浜市港北区)

打席では、初球から狙って追い込まれた中、偶然甘い球が来て打つことができた。普久原さんのヒットをきっかけにこの回同点に追いつき、延長戦を制して甲子園への切符を手に入れた。最後の夏は何が起こるか分からないと感じた出来事だった。

夏が始まるまで、レギュラーと控えの間で軋轢もあった。レギュラーと控えは練習が別々で、お互いの置かれた立場や状況を理解していなかったからだ。それでも、何度も話し合いを重ね、共に練習し戦うことでお互いを知り、チームも一つにまとまっていった。その中で自身は一塁コーチャー兼代打の切り札としてチームに徹することを見出した。

「ベンチに入れなかった選手もいる。その選手のことを考えると中途半端なことはできるはずがなかった」。膝を痛めていて歩くこともままならなかったが、けがのことを誰にも話さず我慢しながら試合に出続けた。




(次ページ=九回裏2死二、三塁 監督と目が合って……