今月の名作探訪は町田康の小説家処女作『くっすん大黒』を取り上げる。
働くことが嫌になり、毎日酒を飲んで自堕落な生活を送る楠木正行。妻は出て行き、金も尽きる。かといってどうするわけでもなくだらだらするわけだが、部屋に転がる金属製の大黒像が気になって仕様がない。不快である。よしこいつをひとつ捨てちまおう、とこういう具合で小説は始まる。
それから始終徹底したスラップスティックと小気味良い語り口で、読者としては笑うしかない話が展開する。
ここで本文を引用したい。冒頭、不快な大黒様についての描写である。
〈なにしろこの腐れ大黒ときたらバランスが悪いのか、まったく自立しようとしないのだ。最初のうちは自分も、なにしろ大黒様といえば、福や徳の神様だし、ああ大変だ大黒様が倒れてなさる、といちいち起こしてさしあげていたが、何回起こしてやっても、いつの間にか小槌側に倒れていて、そのうえふざけたことに、倒れているのであるから当人も少しは焦ればいいものを、だらしなく横になったままにやにや笑っている、というありさまで、全体、君はやる気があるのかね、と問いただしたくなるような体たらくなのである。〉
この長文で2文。今でこそ、こうした「話し言葉的文体」は珍しくないが、この作品の初出は96年。当時のベストセラーが渡辺淳一『失楽園』だった頃である。
町田康の特徴はこの特異な文体にある。使い古された言い方だが、現代版言文一致をぐんと推し進めたと言ってもいい。
書き言葉が話し言葉に近づくとはどういうことだろう。書き言葉は他者に時空間を越えて伝達することを目的としている。そのため明確な基準と形式を必要とする。逆に、話し言葉は不定形でまどろっこしく、時に曖昧だ。方言があり、個人個人の息遣いがあり、その場の空気の影響下にある。
書き言葉が話し言葉に近づくということはつまり、より不安定で極私的な表現方法でもって、他者とコミュニケートする、ということだ。それはより個人的な対話であり、より親しみを生み、より共感を呼ぶ。(加えて町田康には絶妙過ぎる「笑い」の精神もある。)
これまでの「書き言葉的」書き言葉では捉えられない何かを、「話し言葉的」書き言葉なら捕まえることができる。人々がそれを望んで、あるいはその可能性に賭けたからこそ、町田康は熱い支持を受け、「文学」の新しい地平を切り拓いたとも評されたのだろう。
この「話し言葉的」書き言葉を巧みに操るには相当なエネルギーと技術が必要だ。革命的言文一致体とも言えるケータイ小説が、貧弱な物語しか紡げないことがそれを証明している。そんな超絶技巧をやってのけてしまうところ、やはり町田康はパンクである。ページを手繰る度に、ギィンギィン唸るギターの音が聞えてきそうだ。
(古谷孝徳)