「ぼくコミュ障だから」

自分はコミュニケーションが得意ではないという宣言。あなたの周りにもこのようなことを言う人がいるのではないだろうか。

「『コミュ障』という言葉をわざわざ使うのは、実際にコミュニケーションで失敗したときの予防線になるからです」。こう語るのは医学博士で、精神科医の水島広子さんだ。

彼女は「『コミュ障』とは、社交不安に近い」と話す。変に他人の目が気になっていて、その中で上手く対話できない自分に焦点が当たっているような状態が「コミュ障」の典型的な例なのである。

だが、ここで言う「他人」とは「リアルな他人」ではないと水島さんは指摘する。自分の頭の中で作り上げた他人のイメージを、現実の他人に投影してしまっているのだ。そのため、近くにいる相手と実際にやりとりをしていないにもかかわらず、相手がどう思っているのかを延々と気にしてしまう。いわば、強迫観念にとらわれているのだ。

イラスト=長岡真紘

なぜ人は、そのような「架空の他人」の目が気になってくるのであろうか。その原因として、水島さんは「プチトラウマ」という言葉を挙げる。命にかかわるほどではないが、他人の言動によって傷つく状態のことだ。

「あなたって真面目ね」 このように言われると、どのように感じるだろうか。たとえ褒め言葉だったとしても、その言葉を受け取った本人が、「真面目」な自分を嫌っていたり、ネガティブなものと捉えている場合もある。するとこの言葉には、心にぐさりとくるものがないだろうか。

このような経験をすると、「人は所詮、他人に対して否定的な評価を下してくるものだ」というような先入観が積み重なってしまう。すると、他人とコミュニケーションをとるのが怖くなってくる。「プチトラウマ」が積み重なることで、他人を怖いと感じてしまう人は意外と多いのである。

また、水島さんによれば、コミュニケーション能力(コミュ力)の定義の曖昧さが、「コミュ障」という言葉の広まりに一役買ったそうだ。「コミュ力」というと、いわゆるイケイケ系で、人前でよどみなく話すことのできる人が持っている能力のことかと思うかもしれない。しかし、水島さんは「コミュ力」を「相手と折り合う力」であると考える。コミュニケーションは、自分が相手に期待することを伝えたり、相手が自分に期待することを確認したりするための手段なのだ。本当の意味での「コミュ力」が低いと、相手とのズレが広がって関係が悪くなる、と注意を促す。

その一方で、コミュニケーションのとり方は人それぞれであるから、上手いも下手もないという見方もある。「人間はなんだかんだ言っても愚直(に思いを伝えるの)が一番」と水島さんは助言する。ばか正直でもよいので自分を発信することが大切なのだ。

さあ、まだあなたは自分のことを「コミュ障」だと言い続けるのか。「コミュ障」を使わずとも、自分なりの思いの伝え方がきっとあるはずだ。

(曽根智貴)