金曜日の朝、ラジオのチューナーを合わせると「ファンキーフライデー」のタイトルコールが響く。9時間にも及ぶ生放送番組は、今年で25周年を迎える。

「ラジオの魅力は生放送。誰が今何をやっているか興味を抱くのは、人間が集団生活を営む上で本能的なこと」。そう語るのは、この番組をたった1人で進行する小林克也さん。半世紀近くラジオの現場に立ち続けている、日本におけるラジオDJの第一人者だ。

「ラジオは僕にとっておもちゃだった」。少年時代を過ごした終戦直後、お茶の間の主役はラジオだった。ドラマも数多く放送され「映像のない、音だけの世界は、スクリーンの枠を超えた大きな世界が広がっていた」

また、丸ダイヤルをひねると日本語のほか、英語、中国語、ロシア語、様々な言語が飛び交っていた。その中でも米駐留軍によるFEN(現・AFN)は、小林さんの心を鷲掴みにした。

当時のアメリカは、ラジオが第2期黄金期を迎え、ロックンロールが若者を席巻していた。日本のラジオとは違い、曲の解説はせず、アメリカンジョークを入れる。例えば「この曲があまりにもホットだから、こないだアンテナの上に鳥が止まって焼け死んだ」といったものだ。小林さんは、お気に入りの番組を聴くために学校を休むこともあった。

慶大入学後、1年生で通訳案内士試験に合格。外国人とともにナイトクラブに行ったことをきっかけに司会業へ、そして29歳のときに興味を抱いていたラジオの道へ転身した。

しかし、ラジオの現場は想像していたものと違っていた。憧れていたアメリカの雰囲気では無かったからだ。

「アメリカを真似て、ジョークを言ってもだめ。日本には日本流の話し方、面白さがある」。約10年間悩み続けた結果、その曲が好きな理由を語ることが自分の魅力だということに気づいた。

その頃、日本の音楽番組では、曲の前奏中に早口で話すことを「アメリカンスタイル」と呼んでいた。たしかにアメリカでは曲の前奏中に喋るが、それは「形だけであって心ではない」。前奏で、気持ちよく歌の世界に入らせてあげるのがアメリカの心だ。曲によって声のトーンやテンポを変えることが大切だという。一定時間にどれだけ話せるか練習する当時のアナウンサーを軽蔑していた。

そんな小林さんだが、かつて憧れていたアメリカの演出に近いラジオ番組も作った。ラジオDJユニット「スネークマンショー」だ。曲の前にそれに似合ったコントを行う手法は、話題を呼んだ。こういった演出は、他番組とは一線を画しているが、音楽を活かすという意味では共通している。

様々なメディアが存在する中、ラジオは今後続いていくのか。「ラジオは何かをしながら聞くことができるメディア。スマホなど媒体を変えて存在し続けるだろう」
 
76歳となった今でも4本のレギュラー番組を抱えている小林さん。80歳まではラジオの現場に立ち続けたいと笑顔で語った。
(山本啓太)