慶應塾生新聞会 三田オフィス
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医学部開設100年 病との闘いは終わらない

慶大医学部が、今年で開設1‌0‌0年を迎える。医学部は、現在に至るまでどのような歴史をたどってきたのか。1‌0‌0年の伝統をいかにしてこれからの医師育成に繋げていくのか。医学部長の岡野栄之教授に話を聞いた。

福澤と医学

医学部の起源を追ったとき、たどり着くのは、緒方洪庵が開いた適塾である。適塾の門下生となった福澤諭吉は、物理学、化学、生理学等について広く学び、自然科学や医学に関心を抱いた。
 
そして次世代へ医学教育を施すという志のもと、1‌8‌7‌3年、福澤は慶應義塾医学所の創設にこぎつける。明治政府の方針として、伝統と理論を重んじるドイツ医学が積極的に国内で導入される中、福澤が取り入れたのは、当時としては異例のイギリス医学だった。技術の臨床応用を意識したイギリス医学の立脚点は、後の医学部の礎となり、また義塾建学の精神である「実学」とも合致する。
 
医学所は西南戦争の影響で経営危機に陥り、わずか7年で閉鎖へと追い込まれるが、福澤は義塾で医学を教えるという執念を捨てきれない。そんな折、福澤が出会ったのが北里柴三郎である。
 
才能に恵まれながら母校の東大医学部を追われ、研究拠点を失っていた北里に、福澤は手を差し伸べる。私財を投げうち設立したのが、日本初の伝染病研究所だった。福澤の援助により北里は再び研究の場へと戻り、先端的な細菌学の研究を続けることができたのである。
 
福澤の没後、その恩に報いるべく北里は奮起し、1‌9‌1‌7年、慶應義塾医学科の開設を実現へと導いた。

災害医療で得た信頼 

産声を上げたばかりの医学部は、数々の難局に直面することになる。日本の災害史上、発生時点で過去最大の被害をもたらした関東大震災。信濃町キャンパスの約6割を焼き払った東京大空襲。いずれの局面においても、医師、職員、医学生を総動員し、全ての入院患者を無傷で救出した。
 
惨禍を乗り越え、「慶應医学」は災害医療において存在感を発揮するようになった。首都の心臓部に立つ信濃町キャンパスは、2‌0‌2‌0年東京五輪のメイン会場となる新国立競技場からわずか2‌0‌0メートルほどの位置にあり、五輪開催期間中、非常時には災害拠点病院としての稼働が想定されている。
 
世界の慶應医学へ

1‌0‌0年の伝統を受け継ぎ、今、医学部はどのような医療を構想しているのか。
 
慶大病院では、卒業生や大学関係者が病院長を務める全国の関連病院に医師を派遣している。大学のネットワークに組み込まれながら、地域医療に貢献し、医療過疎に歯止めをかける。慶大で学んだ医師たちが作り上げたメカニズムだ。
 
また、国内にとどまらず世界の医学を牽引する人材の育成にも注力するという。医学部生の3人に1人は、海外での短期臨床研修に参加し、学術言語と技術の強化に取り組む。「世界トップレベルの大学と競り合いながらも、共同研究を通して太いパイプをつくり、世界に通ずる研究成果をあげる。理想は実学としての国際化です」と岡野医学部長は話す。

患者とともに 

福澤が北里に残した漢詩『贈医』に、次のような一節がある。
 
「医師道(い)うをやめよ自然の臣なりと」
 
医師は自然に屈してはならない。不治の病に無限の闘いを挑むこと、それが医師の本分であると福澤は説いた。この福澤の思いを継ぎ、「強いリーダーシップを発揮し、患者さんの目線で研究できる医師をこれからも育成していく」と岡野医学部長は語る。
 
世界へと活躍の場を広げても、医師としての信念は揺るがない。福澤、北里から、未来の医師たちへとその信念は受け継がれていく。