60年前、一人の学生が大望を胸に一艘の船に乗り込んだ。船の名は「宗谷」。目指したのは、南極大陸だ。

太陽活動が最も盛んに観測される「国際地球観測年」を前に、1955年、日本の南極観測参入が国際会議で承認された。平山善吉さんは当時、日本大学の建築学科生で山岳部に所属していた。第1次南極観測隊が南極での基地建設を見据え、建築実務に長けた隊員を募集していることを知る。混沌とした時代、唯一の明るい話題に大学側も理解を示した。「南極なら、心ゆくまで山登りもできる」。迷いはなかった。

氷上の雪解け

「登山家として、南極の大自然への憧れがあった」と語る。だが、観測隊の行く手を阻んだのも大自然のエネルギーだった。

日本の南極観測船「宗谷」は船体規模が小さく、砕氷能力に劣る。1次隊を乗せた船は氷盤に遮られ、一時航行不能に陥った。船内では「このまま帰れないのではないか」という不安の声も飛び交ったが、やがてソ連の砕氷船の救援により、宗谷は危機を脱した。

「かつての対立国同士が、大氷原で再び信頼関係に結ばれた瞬間。これも南極の持つ力だと感慨深かった」

ゼロからのスタート

肝心の基地建設も困難を極めた。必要とされるのは、秒速60メートルの風と、室内外で80度ある温度差に耐えうる基地。加えて、限られた時間内で建設可能な構造でなくてはならない。試行錯誤の末に行き着いた答えは、「建築の素人でも造れる建物」だった。

まずこだわったのは、建材は全て国産のものを使用することだ。一つの部材が重すぎず、極端な温度変化にも対応できるヒノキを選んだ。それらを組み合わせて障子のような骨組みを作り、マッチ箱の要領で四角形に組み合わせる。こうして、日本初のプレハブ建築である南極観測基地・昭和基地が誕生した。

今日、プレハブ工法は災害時の仮設住宅に応用されている。その他に通信機、冷凍食品、防寒素材など、南極観測がきっかけとなり開発が進んだ日本の工業技術は数知れない。「無いものは自分で作るしかない時代。南極のために作ったものがフィードバックされ、日本の産業は発展した」 

自然界の縮図

平山さんは、永田武観測隊長のある言葉が印象に残っている。

「南極は宝の山だ。失敗を恐れず、何でもやってみろ」

その言葉通り、日本の観測隊は謎に包まれていた数々の自然現象の原理を解き明かした。オーロラの発生機構の究明や、オゾンホールの発見はほんの一部に過ぎない。

大陸分裂前、南極は赤道付近に広がっていたため、氷床には豊かな石炭資源が眠る。日本隊は、3000メートルの氷床ボーリングで掘削した氷塊のサンプルを解析し、気温や二酸化炭素濃度の経年変化を最大70万年前までたどることに成功した。

また、基地から気球を放ち南極大陸上空を周回させ、大気成分を採取する取り組みも行われた。実験は現在も継続され、宇宙線やオゾンのデータ収集を通して、地球温暖化のメカニズムの解明が期待される。

南極は原点

果てなき可能性を秘めた大自然に圧倒され、「大感激の日々だった」と平山さんは南極での生活を振り返る。

「南極は自分の、そして戦後日本の原点。自分が設計した建物が今、どうなっているのかは見てみたい。でも、南極を旅するのに理由はいらない。行くことに意義がある」

南極観測の創成期を支えた技術者は日本産業のフロントランナーであり、夢見る登山家でもあった。南極観測は「過去の地球環境の復元」から、「未来の気候変動の予測」まで、時代とともに移ろう自然と生命の姿を確かに映し出す。宝の山は、まだ掘り当てられたばかりだ。 
(広瀬航太郎)