歴史ある早慶戦の舞台。そこに欠かせないのが、ペンマークが左上に映える慶應義塾の三色旗、塾旗だ。應援指導部の旗手によって掲げられており、昭和33年からは「塾旗入場」が行われている。熱い空気に包まれる神宮球場の応援席で両校の旗が対峙する。応援席に旗が4本ずつ立つのは世界中を探しても早慶戦だけだとも言われる。

応援席で塾旗を掲げる木村さん
応援席で塾旗を掲げる木村さん
この塾旗は、慶應義塾が應援指導部に預けているものだ。三田にある應援指導部の「塾旗部屋」と呼ばれている部屋に、「塾旗部屋は常に聖域たれ」という言葉とともに代々受け継がれ、大切に保管されてきた。実際に使用する際にも、大事に、丁寧に扱われる。

現在、10本の塾旗を所有している。そのうち最も古いのが「幻の大塾旗」と呼ばれているものだ。「最も勇壮で、最も誇り高い」といわれるこの塾旗は、1946年に製作された。縦3.7メートル、横4.6メートルの巨大な旗は、修理をしながら現在も現役で使用されている。

ほかにも優勝のかかった試合でしか掲げられない「金ペン塾旗」や、OBの塾員から寄贈された塾旗もある。2008年には創立150年を記念し、寄付金により2本の旗が新たに加わった。

慶應義塾の旗には、伝統的に個人名はつけられてきていない。第一、第二、といったつけ方のものや、その旗の特徴を表したもの、メッセージ性を持つものもある。「先導旗」は、慶應義塾の創設者福澤諭吉の独立自尊の精神をもとに、「社会の先導者たれ」という思いを込めて命名された。

應援指導部の中でも、集中力を切らさずに旗を支え続けられる人が旗手として選ばれ、早慶戦をはじめとしたさまざまな場面で旗を掲げている。

その旗手をまとめる旗手長を今年務めるのは、木村翔さん(総4)だ。旗手として旗を持つことは、1、2年生の頃からの憧れであった。昨年初めて、旗手として神宮球場の外野席で塾旗を掲げた。下級生としての厳しい時期を乗り越え、ようやく立つことのできた輝ける舞台だった。

木村さんは、これまで旗手を務めてきた上級生から、「塾旗の魅力を常に伝えられる旗手であれ」と伝えられた。また同時に、皆の応援を背負う存在としての自覚を持たなければならない、という言葉を受けた。

今年からは最高学年の旗手長として今後を見据え、旗手を育てるように心がける。「自分も育ててもらった身。自分以上に上達してもらえるよう、旗を持つ機会を与えるようにしている」と木村さんは話す。

塾旗は最も大きなもので60キロ、風が吹くと体感で80キロ、100キロの重さになる。素人には持つことのできないものだ。球場での閉会式では君が代が流れている間、旗で礼をし続けなければならない。この「旗礼」では重い塾旗を横にして低い位置に1分間保持し続けるため、長い間旗の重みの全てが腕にかかる旗手にとって最も負担の大きい場面である。

練習は、旗を広げて掲げられる形にする作業もあるため月に一度ほどしか行えない。そのため限られた短い時間の中で集中して練習している。「旗礼」の練習も欠かせない。

練習場所は、三田キャンパスの東門の中だ。ビル風が吹き付け、神宮球場を想定した練習ができる。「慶應義塾から信頼を置かれて預けていただいているものなので、倒すなんてもってのほか。『絶対に守る』という気持ちで持っている」と木村さん。いつ吹き付けるかわからない風に備えるため、気を抜くことはできない。

旗手長が行うのは内野席での「塾旗入場」という責任ある仕事だ。「神宮球場の3万人の目線を独り占めできる、生涯もうない機会だ。自分の生きざま、4年間の集大成として旗を見せたい」

その大きさと重さから「人が持つものではない」とまで言われる「幻の大塾旗」。一目見ただけでそれとわかるといい、やはり大きな旗は見映えが良い。木村さんは、早慶戦では5年もの間掲げられてこなかったその旗を今年神宮に掲げるべく、練習を重ねている。「塾旗を楽しみに地方から見に来る人もいる。自分が上げなければという使命感を持って臨んでいる」

早慶戦に足を運び、塾旗を見た1年生には慶應に入ってよかったと思ってもらいたいという。「塾旗が、卒業後も見ると学生時代を思い出す象徴になってほしい」。應援指導部最後の年、旗手長として、並々ならぬ思いを胸にポールを握る。

神宮球場に、今年も三色旗がはためく。歴史を重ねてきたその塾旗を掲げる旗手の目には、どんな景色が映るのだろう。
(青木理佳)