挑戦状から始まった

早慶戦は1903年に早大野球部からの挑戦を受ける形で始まった。この第1回早慶戦は、11―9で慶大が勝利した。その後早慶戦は毎年行われたが、第3回戦である1906年を境に一時中断される。両校の応援があまりに白熱し興奮したものになり危険であると判断されたためだ。 

これをきっかけとして他の競技の早大との試合も行われなくなり、以降野球の早慶戦は六大学野球が発足する1925年まで行われなかった。

約20年ぶりの早慶戦は11―0で慶大が敗北した。東京六大学リーグ戦の一環として行われるようになった早慶戦だが、必ず最後の試合になるように日程が調整されるなど特別な扱いを受けている。 

現在では野球以外の競技でも早慶戦が行われており、昨年度は39の部活で計63部門の試合が開かれた。慶大が勝利した部門数は合計18部門、敗北した部門は42部門だった。


塾生の想い

塾生にとって早慶戦は具体的にどのような意味を持っているのか。慶應義塾大学体育会本部の三木雅史氏(経4)と原田直道氏(商4)に伺った。「早慶戦は数ある野球の試合の中でも格式高く、世間からの注目度も高い。早慶戦出場はやはり憧れであり、絶対に負けたくないのでチームの雰囲気も変わる」と原田氏は語る。「他の試合と比べて応援にはOB・OGの方が多くいらっしゃるし、早慶戦に勝つと塾長招待会に呼ばれるため当然モチベーションは上がる」と三木氏は言う。


語り継がれる名勝負

早慶戦はその長い歴史の中で様々な事件や名勝負を生んできた。慶大と早大の応援団をそれぞれ三塁と一塁に固定するきっかけとなった「リンゴ事件」が有名である。

これは1933年秋季リーグで起きた事件であり、この試合では審判の判定に対し2回と8回に慶大と早大の監督が抗議し判定が覆ったことで両大の応援団は興奮状態にあった。その後応援席から慶大にリンゴが投げ込まれ、選手がそれを投げ返した。その後試合は慶大の逆転サヨナラ勝ちで幕を閉じたが、一連の流れに興奮した早大応援団が慶大側ベンチになだれ込んだ。警官隊が出動するほどの騒ぎとなった。

1943年に学徒兵を送り出すために行われた「最後の早慶戦」は2008年に映画化された。戦地に向う両大の学生のため、戦時下の様々な圧力があったにも関わらず決行された試合だ。

慶大は11―0で敗北したが、この試合で勝敗は重要ではない。

最後の早慶戦の後2年間は行われなかったが、終戦を迎えた1945年11月にはオール慶早戦という形で六大学野球リーグの正式な復活よりも先に再開された。


戦いは続く

早慶戦は戦後から現在に至るまで中止されることなく続けられ、2000年代後半の早大の斎藤佑樹選手といったスター選手はメディアにも大きく取り上げられた。早慶戦は慶大・早大の内外問わず毎年多くの人の関心を引いている。

現在の野球の早慶戦の戦績は全408試合中慶大180勝に対し早大218勝と早大が一歩リードしている。

昨年度は春季六大学野球リーグで早慶戦が優勝争いになり、大きな盛り上がりを見せた。秋期は惜しくも優勝できなかったが、春季六大学野球リーグ二年連続優勝に向けて、今年の残りの試合も頑張ってほしい。
(川村匠)